トップページ文化・観光伝統・歴史>三木合戦の様子

三木合戦の様子

イラスト

戦国時代、別所氏が美嚢川のほとりの高台に三木城を築き、城下町が形成され市の基礎ができ、東播磨8郡(今の加古川市、高砂市、明石市など三木の周辺都市を治める地方都市として栄えました。

今からおよそ400年以上前、別所長治が三木城主の時、毛利氏を攻略し、中国平定をしようとした織田信長に抵抗して、羽柴秀吉率いる織田軍団と2年間にわたる合戦をしました。

秀吉は、難攻不落を誇る三木城をなかなか攻略できなかったため、三木城の周辺の別所方の城を順に攻め滅ぼし、最後に三木城の周りを多くの軍勢で包囲し、兵糧攻めという奇策を用いて城兵を痛めつけました。

三木城は包囲されたままおよそ2年間ろう城を続けましたが、やがて食料は底を尽き、城兵は飢え、戦う力を失いました。

そこで、家臣や領民の安全を約束させる代わりに、城主の別所長治とその一族は自刃しました。こうして、「秀吉の一番長い戦い」は、幕を閉じたのです。

別所氏を滅ぼした秀吉は、町民を呼び戻し、町の復興を図るための政策として、免税の立て札を立てました。
これによって、三木の町には大工職人や鍛冶屋が各地から集まり、今日の「金物の町」としての基礎が出来上がったといわれています。

この立札を制札(せいさつ)、免税を地子免許(じしめんきょ)といい、制札は市内の本要寺に残っています。

史跡・寺院・文化財:三木城跡
史跡・寺院・文化財:雲龍寺-長治公首塚