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三木城跡

神戸電鉄上の丸駅下車徒歩3分。羽柴秀吉による三木城攻めは、凄惨を極め、城主別所小三郎長治は兵士や領民の命と引き換えに一族とともに自刃したという歴史を秘める。
城塀に囲まれた本丸跡に「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された長治公辞世の歌碑があります。

毎年5月5日には三木城跡を中心に市内各所で長治公を偲び、三木の大恩人として後生に長く語り継ぐための行事として別所公春まつりを開催しています。


所在地: 〒673-0432
兵庫県三木市上の丸町
アクセス: 神戸電鉄三木上の丸駅から徒歩3分

観光マップ

長治公辞世の歌碑の写真
「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」
長治公辞世の歌碑
 

三木合戦(三木の干し殺し)

三木合戦とは、天正6年(1578)3月から天正8年1月17日までの1年10ヶ月にわたる羽柴秀吉を主将とする織田信長方と毛利輝元を後ろ盾とする三木城主別所長治方との合戦をいいます。
天正5年10月、織田信長は部将羽柴秀吉に中国地方の毛利攻めを命じます。この時、別所長治も織田方について秀吉に協力することを約束します。しかし、天正6年3月初め、長治は、秀吉と対立し、毛利輝元方へ味方しました。信長は長治の離反に激怒し、黒田官兵衛に対し、長治の成敗を命じました。これを受けて秀吉は、三木城へ押し寄せ、近隣に火を放ちました。
当初、織田方は東播磨の反織田方の攻略を進めていき、4月に野口城(加古川市)を落とし、7月には神吉城(同)・志方城(同)を攻略しました。続いて、織田方は三木に向かい、7月下旬から三木城攻略のための付城の構築が開始されました。以後、平井山は秀吉の本陣となりました。10月22日、別所方は三木城から平井山の秀吉本陣への襲撃を試みます。しかし、長治の弟治定が討死するなど別所方の敗北となりました。
翌天正7年4月、信長は、信忠らを再び播磨へ派遣、付城を新たに6ヶ所築くなどして三木城の包囲をさらに厳重なものとしました。5月下旬、織田方は丹生山の海蔵寺取出とその北麓の淡河城(神戸市)を攻め、淡河弾正以下を撤退に追い込みました。これにより、三木城は東側からの兵糧の補給ルートが閉ざされました。
6月以降に本格化するとみられる毛利方による明石浦魚住から三木城への兵糧搬入に対し、織田方は、三木・魚住の通路を塞ぐために、周辺の付城の間に番屋・堀・柵などの防御施設を設置しました。兵糧搬入路が遮断されたことにより、三木城の食糧不足は深刻なものとなっていきました。このような中、6月13日、秀吉の軍師であった竹中半兵衛が三木の陣中で病死しました。
9月10日、三木城への兵糧搬入を遂げたい毛利方は、平田・大村付近を襲い、同時に別所方が三木城内から出撃して兵糧を三木城内に運び込もうとしました。両軍衝突により、織田方は谷大膳が討死しましたが、別所方も兵糧搬入部隊が秀吉方の攻勢を受け、多くの武将が討ち取られました。
10月7日、平田大村合戦に勝利した秀吉は、さらに付城を寄せて築きました。三木城包囲網を狭めたことにより、これ以降、毛利方からの組織的な兵糧搬入は行われなくなり、三木城内に蓄えた食糧は尽き、餓死者が数千人出るなど、「干し殺し」の様相となりました。
天正8年1月、秀吉は三木城への最終攻勢を開始しました。1月6日、秀吉は調略により、宮ノ上要害を乗っ取り、11日には長治の弟友之が守る鷹尾山城と叔父賀相(よしすけ)の籠る新城を攻略しました。15日になり、織田方である叔父別所重棟(しげむね)が城内から小森与三左衛門を呼び出し、別所長治・賀相・友之の切腹を促し、長治は城兵の助命を条件に秀吉の降伏勧告を受諾しました。そして、17日に長治ら一族が自害することで三木城が開城となりました。

伝統・歴史:三木合戦の様子

 
三木城包囲の付城群

三木城を包囲した付城群については、江戸中期の寛保2年(1742)に書かれた地誌「播磨鑑」に、三木城寄衆次第として付城の位置や武将の名が記されています。また天保12年(1841)東這田村小林伝右衛門作図の「播州三木城地図」にも別所方の城のほか、三木城包囲の付城や多重土塁が描かれています。これらの資料から付城の数は約40個所に及び、これほどの規模で付城が築かれた例はほとんどなく、戦国史上まれな戦といえます。

また、平成9年度より4カ年計画で実施した市内遺跡詳細分布で、現存する付城群を20箇所確認しています。開発によって消滅した付城3箇所(加佐山城跡、二位谷奥付城跡A・B)を加えると23箇所が現在まで残っていたことになります。

多重土塁は三木城の南側に築かれ、現存する土塁から推測すると、法界寺裏より宿原まで断続的に続いていたと思われます。
なお、秀吉は完全に包囲し三木城を攻略した経験を、この後の鳥取城、備中高松城の攻略に生かし、城攻めを行っています。