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三木城跡

神戸電鉄上の丸駅下車徒歩3分。秀吉による三木城攻めは、凄惨を極め、城主別所小三郎長治は兵士や領民の命と引き換えに一族とともに自刃したという歴史を秘める。
城塀に囲まれた本丸跡に「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された長治公辞世の歌碑があります。

毎年5月5日には三木城跡を中心に市内各所で長治公を偲び、三木の大恩人として後生に長く語り継ぐための行事として別所公春まつりを開催しています。


所在地: 〒673-0432
兵庫県三木市上の丸町
アクセス: 神戸電鉄三木上の丸駅から徒歩3分

観光マップ

長治公辞世の歌碑の写真
「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」
長治公辞世の歌碑
 

三木合戦(三木の干し殺し)

天下統一を目指す織田信長は、天正5年(1577)に、中国地方の戦国大名毛利輝元を打つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させました。
播磨の守護代である小寺氏や別所氏など有力武将は、秀吉率いる織田軍に加勢することを約しました。別所氏は、村治、安治のころより織田氏とかかわりが深く、長治の叔父重棟は既に織田方として従軍していました。
毛利氏の庇護にあった前将軍義昭は、諸将に織田軍に叛き毛利氏に加勢するよう働きかけていたため、別所長治を中心に播磨の武将は織田方に反旗を翻し、三木合戦へと発展していきました。(天正6年)

秀吉は、播磨の武将をまとめる別所氏との直接対決で、兵力が消耗することを避け、三木城を領内の播磨内陸部との連絡を絶ち孤立化させるため、三木城の北側に付城群を築き、別所氏に味方する播磨各地の城攻めを行いました。
別所方は三木城に新城をあらたに築き合戦に備えていましたが、周辺の城が落とされ兵糧も十分に確保できなくなり、毛利氏、荒木村重などからの兵糧補給を頼りとしていました。荒木氏は丹生山の明要寺を経由し密かに兵糧を補給し、毛利氏は海路明石魚住から補給していました。
三木城周辺での戦は、天正6年(1578)10月に平井山の合戦があったほか、天正7年2月魚住からの補給をめぐる戦いが、5月には丹生山での戦が、9月には平田での戦があったことが記録に見えます。これらの戦いは兵糧をめぐる攻防だったと思われ、戦いのたびに兵糧の搬入路を失っていきました。なかでも天正7年2月の戦いの後、織田信忠によって三木城の南側に付城が築かれ、魚住からの搬入が思うようにいかなくなり、迂回して大村坂より搬入することとなって、平田の戦へとつながっていきます。

別所方にとっては兵糧を確保する重要な戦であったのですが、そのたびに多くの武将と兵糧の搬入手段を失い、食料が尽きた城内の領民や兵は餓えに苦しみ悲惨な状況であったと云われ、城主長治は領民の命を救うため、天正8年(1580)1月、一族とともに自刃し開城しました。この合戦を別名「三木の干し殺し」と呼ばれています。

伝統・歴史:三木合戦の様子

 
三木城包囲の付城群

三木城を包囲した付城群については、江戸中期の寛保2年(1742)に書かれた地誌「播磨鑑」に、三木城寄衆次第として付城の位置や武将の名が記されています。また天保12年(1842)東這田村小林伝右衛門作図の「三木城地図」にも三木方の城のほか、三木城包囲の付城や多重土塁が描かれています。これらの資料から付城の数は30数個所に及び、これほどの規模で付城が築かれた例はほとんどなく、戦国史上まれな戦といえます。

また、平成9年度より4カ年計画で実施した市内遺跡詳細分布で、現存する付城群を17箇所確認しています。発掘調査によって消滅した付城3箇所(君が峯、加佐山、二位谷奥)を加えると20箇所が現在まで残っていたことになります。

多重土塁は三木城の南側に築かれ、現存する土塁から推測すると、法界寺裏より宿原まで断続的に続いていたと思われます。
なお、秀吉は完全に包囲し三木城を攻略した経験を、この後の鳥取城、備中高松城の攻略に生かし、城攻めを行っています。