竹中半兵衛の墓
天才軍師と称えられる竹中半兵衛は、天文13年(1544年)9月、美濃国大野郡(現在の岐阜県大野町)で生まれました。
1578年から始まった三木合戦に参加しましたが、天正7年(1579年)6月13日、織田方の羽柴秀吉の陣中で病気のため亡くなったといわれています。
現在、三木市平井には、かつて秀吉の本陣があった山に続くブドウ畑の近くに、白い塗り塀に囲まれた墓があります。
毎年7月13日には、平井地区住民が中心となって法要が催され、半兵衛の地元である岐阜県大野町や垂井町からも参列者があります。
アクセス

公共交通機関でお越しの方 ▶ 神戸電鉄恵比須駅から徒歩30分です<外部リンク>
お車でお越しの方 ▶ 駐車場はございませんので
「平井公民館」横の駐車場<外部リンク>、または秀吉本陣跡の駐車場<外部リンク>をご利用ください。
※竹中半兵衛の墓の前の道路には、駐車できません。ご協力をお願いします。
竹中半兵衛にまつわる話・・・三木城攻め途中に病没
羽柴秀吉が三木合戦で播磨に出陣したときには、世にもまれといわれた二人の軍師を平井山の本営において、周到な作戦にあたらせていた。一人はもとの小寺官兵衛で、秀吉が播磨へ一歩を印したとき、みずからの居城、姫路城本丸を提供した黒田孝高。
ほかの一人は美濃(岐阜県)出身で、織田信長のはからいによって秀吉に属し、近江長浜城などにあって主従を超えた友情に結ばれてきた竹中半兵衛重治であった。
三木城攻防戦がたけなわのころ、竹中半兵衛は胸を病んでいた。秀吉のすすめで京都に移って療養していたが、折からはかばかしく進展しない戦況を案ずるあまり、カゴにのって戦場へ逆もどり。夜半に本営にのりつけた。
「なぜ、帰ってきたのだ。」と問う秀吉にやせこけたホオに不敵な笑みを浮かべて、「陣中で死にたかったまででござる。」くらやみのなかでキラリと目を輝かせたという。
天正7年(1579年)6月、半兵衛は陣中でなくなった。36歳であった。秀吉は遺体にとりすがり、人前もはばからず泣きくずれたという。
本営のあった山に続いたぶどう畑のまん中。白い練りべいに囲まれて、半兵衛の墓がある。
作家司馬遼太郎のベストセラー「播磨灘物語」にその時の様子がくわしく書かれている。半兵衛の墓は平井山東南の山麓にある。志染町安福田にもあるが、あまり知られていない。
その他の情報
竹中半兵衛が戦った「三木合戦」に関する情報や最新の観光パンフレットは、「HIDENAGAフェス」の特設ページに掲載しています。





