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竹中半兵衛の墓

印刷 文字を大きくして印刷 更新日:2019年3月4日更新
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半兵衛は美濃(岐阜県)出身の兵法家で、秀吉の片腕として活躍しました。三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死しました。
本営のあった山に続いたぶどう畑のまん中の、白い練りべいに囲まれて墓があります。
半兵衛の墓は、志染町安福田にもあります。

所在地:〒673-0421
兵庫県三木市平井
アクセス:神戸電鉄恵比須駅から徒歩30分
駐車場:無(平井公民館横の駐車場をご利用ください)

竹中半兵衛

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竹中半兵衛にまつわる話・・・三木城攻め途中に病没

羽柴秀吉が三木合戦で播磨に出陣したときには、世にもまれといわれた二人の軍師を平井山の本営において、周到な作戦にあたらせていた。一人はもとの小寺官兵衛で、秀吉が播磨へ一歩を印したとき、みずからの居城、姫路城本丸を提供した黒田孝高。
ほかの一人は美濃(岐阜県)出身で、織田信長のはからいによって秀吉に属し、近江長浜城などにあって主従を超えた友情に結ばれてきた竹中半兵衛重治であった。

三木城攻防戦がたけなわのころ、竹中半兵衛は胸を病んでいた。秀吉のすすめで京都に移って療養していたが、折からはかばかしく進展しない戦況を案ずるあまり、カゴにのって戦場へ逆もどり。夜半に本営にのりつけた。
「なぜ、帰ってきたのだ。」と問う秀吉にやせこけたホオに不敵な笑みを浮かべて、「陣中で死にたかったまででござる。」くらやみのなかでキラリと目を輝かせたという。

天正7年6月、半兵衛は陣中でなくなった。36歳であった。秀吉は遺体にとりすがり、人前もはばからず泣きくずれたという。
本営のあった山に続いたぶどう畑のまん中。白い練りべいに囲まれて、半兵衛の墓がある。
作家司馬遼太郎のベストセラー「播磨灘物語」にその時の様子がくわしく書かれている。半兵衛の墓は平井山東南の山麓にある。志染町安福田にもあるが、あまり知られていない。