三木合戦とは 【豊臣兄弟と三木】
三木合戦とは
豊臣兄弟と三木
天下統一へ至る道を切り拓いた播磨の決戦
豊臣秀吉が天下人へと至る道のりにおいて、決して欠かすことのできない戦いがある。
それが、播磨国・三木城をめぐる三木合戦である。この戦いは、秀吉が中国地方攻略を成し遂げ、やがて天下統一へと進むための、最も過酷で、重要な試練の一つであった。

戦国時代、織田信長の勢力拡大の中で、秀吉は中国地方攻略という重大な任務を担っていた。
その背後を脅かす最大の障壁の一つが、三木城である。城主は別所長治。三木城は堅固な要害として知られていた。
別所長治は、通称名を小三郎と言い、若くして家督を継いだ。織田信長と主従関係を結び、信長の「長」の字を受けて、「長治」と名乗った。
しかし、その関係は長くは続かなかった。1578年、別所長治は織田方から離反し、毛利氏に呼応する。
別所氏の離反
従来は、周辺勢力との関係や、急速に支配を広げる織田政権への警戒など、複合的な事情がその決断の背景にあったと考えられていたが、近年新たに発見された「羽柴家文書写」によると、秀吉方が別所方の八つの城を先に攻撃したことが要因とみられる。
この離反は、秀吉の中国地方攻略を根底から揺るがす重大事であった。
交通の要衝である三木城を放置すれば進軍路は断たれ、背後から毛利方に突かれる危険があった。
三木城の制圧は、秀吉の命運を左右する戦略の要となったのである。
秀吉の戦略
そんな三木合戦で、秀吉が選んだのは正面攻撃ではなく兵糧攻めだった。
自軍の損害を抑えつつ、勝利を得ようとする戦い方である。包囲は約1年10ヵ月に及びで、「三木の干し殺し」と呼ばれるほどだった。
1580年、ついに別所長治や一族等は、城兵と領民の命を救うため自害を決断し、秀吉は三木城を開城させることとなった。
三木城跡には、別所長治が最期に詠んだとされる辞世の歌碑が立つ。
今はただ うらみもあらじ 諸人の
命にかわる 我身と思へば
己の死と引き換えに人々を救った長治の姿は、今も三木の地に深く刻まれている。
三木合戦後、天下統一へ
秀吉は、この三木合戦の勝利によって中国攻略を大きく前進させる。
やがて毛利氏との講和が実現し、さらに本能寺の変で主君を失った後、「中国大返し」によって一気に天下の表舞台へと躍り出る。
その出発点のひとつこそ、三木合戦であった。
三木は、豊臣政権にとって「天下統一の基盤を築いた最重要拠点」のひとつであり、政治と軍事の拠点として領国支配する地となった。
その後、三木は城下町として、都市基盤が整備されていった。
現在の三木市では、別所長治は大切に祀られ、毎年その法要が営まれている。
他方で、別所氏と戦った豊臣氏にまつわる史跡も点在する。秀吉本陣跡、そして三木合戦の最中に命を落とした軍師・竹中半兵衛の墓もそのひとつである。竹中半兵衛の墓は、地域住民の手によって400年以上にわたり法要が続けられている。
秀吉が本陣を構えた平井山
三木市内の関連スポットは、こちらのページもご覧ください。
豊臣兄弟と三木合戦に関する主な出来事(年表)

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西暦 |
和暦 |
日付 |
出来事 |
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1568 |
文禄11 |
10月ごろ |
三木城主・別所安治は織田信長に属す。 |
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1569 |
文禄12 |
8月19日 |
織田軍の播磨侵攻に、別所氏も従軍。 |
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1570 |
元亀1 |
1月 |
別所小三郎(のちの別所長治)、織田信長の求めに応じて上洛。 |
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1572 |
元亀3 |
4月以降 |
別所氏が信長と主従の関係を結ぶ。別所小三郎、信長から「長」の文字を拝領して「長治」と名乗る。 |
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1577 |
天正5 |
10月23日 |
羽柴秀吉、信長の命を受けて播磨へ出陣する。 |
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1577 |
天正5 |
12月3日 |
秀吉、上月城を攻略(現在の兵庫県佐用町)。その人質を三木城に置く。 |
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1578 |
天正6 |
3月 |
別所長治、織田信長を見限る。これにより織田方の秀吉の軍勢が三木城へ押し寄せ、近隣に火を放つ。 |
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天正6 |
7月 |
織田信忠が、秀吉本陣となる平井山ノ上付城など付城数か所を築城。 |
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天正6 |
10月15日 |
秀吉、「三喜之付城」(現在の秀吉本陣跡か)で初めての茶会を開催。 |
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1579 |
天正7 |
2月 |
別所長治の「託言」を秀吉が拒否。 |
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天正7 |
4月26日 |
織田信忠、新たに付城6カ所を構築。 |
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天正7 |
6月13日 |
三木合戦に参加していた秀吉の軍師・竹中半兵衛が平井山の陣中で病気のため死去。 |
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天正7 |
9月9・10日 |
平田大村合戦。三木城への兵糧搬入を試みる軍勢に対し、別所方と秀吉勢が交戦する。秀吉方の武将・谷大膳が討死。別所方も多数の武将が打ち取られる。 |
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天正7 |
10月17日 |
秀吉、新たに付城を築き、三木城の包囲を固める。 |
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1580 |
天正8 |
1月17日 |
別所長治らが切腹し、三木城が落城。 |





