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三木合戦とは 【豊臣兄弟と三木】

印刷 文字を大きくして印刷 更新日:2026年3月12日更新
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三木合戦とは

豊臣兄弟と三木
天下統一へ至る道を切り拓いた播磨の決戦

 豊臣秀吉が天下人へと至る道のりにおいて、決して欠かすことのできない戦いがある。
それが、播磨国・三木城をめぐる三木合戦である。この戦いは、秀吉が中国地方攻略を成し遂げ、やがて天下統一へと進むための、最も過酷で、重要な試練の一つであった。

別所長治像
 戦国時代、織田信長の勢力拡大の中で、秀吉は中国地方攻略という重大な任務を担っていた。
その背後を脅かす最大の障壁の一つが、三木城である。城主は別所長治。三木城は堅固な要害として知られていた。
別所長治は、通称名を小三郎と言い、若くして家督を継いだ。織田信長と主従関係を結び、信長の「長」の字を受けて、「長治」と名乗った。
しかし、その関係は長くは続かなかった。1578年、別所長治は織田方から離反し、毛利氏に呼応する。

別所氏の離反

従来は、周辺勢力との関係や、急速に支配を広げる織田政権への警戒など、複合的な事情がその決断の背景にあったと考えられていたが、近年新たに発見された「羽柴家文書写」によると、秀吉方が別所方の八つの城を先に攻撃したことが要因とみられる。
この離反は、秀吉の中国地方攻略を根底から揺るがす重大事であった。
交通の要衝である三木城を放置すれば進軍路は断たれ、背後から毛利方に突かれる危険があった。
三木城の制圧は、秀吉の命運を左右する戦略の要となったのである。

秀吉の戦略

 そんな三木合戦で、秀吉が選んだのは正面攻撃ではなく兵糧攻めだった。
自軍の損害を抑えつつ、勝利を得ようとする戦い方である。包囲は約1年10ヵ月に及びで、「三木の干し殺し」と呼ばれるほどだった。
 1580年、ついに別所長治や一族等は、城兵と領民の命を救うため自害を決断し、秀吉は三木城を開城させることとなった。

 三木城跡には、別所長治が最期に詠んだとされる辞世の歌碑が立つ。歌碑

   今はただ うらみもあらじ 諸人の
   命にかわる 我身と思へば

 己の死と引き換えに人々を救った長治の姿は、今も三木の地に深く刻まれている。​

三木合戦後、天下統一へ

 秀吉は、この三木合戦の勝利によって中国攻略を大きく前進させる。
やがて毛利氏との講和が実現し、さらに本能寺の変で主君を失った後、「中国大返し」によって一気に天下の表舞台へと躍り出る。
その出発点のひとつこそ、三木合戦であった。

 三木は、豊臣政権にとって「天下統一の基盤を築いた最重要拠点」のひとつであり、政治と軍事の拠点として領国支配する地となった。
その後、三木は城下町として、都市基盤が整備されていった。

 現在の三木市では、別所長治は大切に祀られ、毎年その法要が営まれている。
他方で、別所氏と戦った豊臣氏にまつわる史跡も点在する。秀吉本陣跡、そして三木合戦の最中に命を落とした軍師・竹中半兵衛の墓もそのひとつである。竹中半兵衛の墓は、地域住民の手によって400年以上にわたり法要が続けられている。

秀吉が本陣を置いた平井山(三木市) 
秀吉が本陣を構えた平井山

三木市内の関連スポットは、こちらのページもご覧ください。

豊臣兄弟と三木合戦に関する主な出来事(年表)

年表 三木城概略歴史年表

西暦

和暦

日付

出来事

1568

文禄11

10月ごろ

三木城主・別所安治は織田信長に属す。

1569

文禄12

8月19日

織田軍の播磨侵攻に、別所氏も従軍。

1570

元亀1

1月

別所小三郎(のちの別所長治)、織田信長の求めに応じて上洛。

1572

元亀3

4月以降

別所氏が信長と主従の関係を結ぶ。別所小三郎、信長から「長」の文字を拝領して「長治」と名乗る。

1577

天正5

10月23日

羽柴秀吉、信長の命を受けて播磨へ出陣する。

1577

天正5

12月3日

秀吉、上月城を攻略(現在の兵庫県佐用町)。その人質を三木城に置く。

1578

天正6

3月

別所長治、織田信長を見限る。これにより織田方の秀吉の軍勢が三木城へ押し寄せ、近隣に火を放つ。

 

天正6

7月

織田信忠が、秀吉本陣となる平井山ノ上付城など付城数か所を築城。

 

天正6

10月15日

秀吉、「三喜之付城」(現在の秀吉本陣跡か)で初めての茶会を開催。

1579

天正7

2月

別所長治の「託言」を秀吉が拒否。

 

天正7

4月26日

織田信忠、新たに付城6カ所を構築。

 

天正7

6月13日

三木合戦に参加していた秀吉の軍師・竹中半兵衛が平井山の陣中で病気のため死去。

 

天正7

9月9・10日

平田大村合戦。三木城への兵糧搬入を試みる軍勢に対し、別所方と秀吉勢が交戦する。秀吉方の武将・谷大膳が討死。別所方も多数の武将が打ち取られる。

 

天正7

10月17日

秀吉、新たに付城を築き、三木城の包囲を固める。

1580

天正8

1月17日

別所長治らが切腹し、三木城が落城。

 

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