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三木城跡

印刷 文字を大きくして印刷 更新日:2021年5月26日更新
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三木城跡(みきじょうあと)

概要

 美嚢川左岸の三木台地北端に位置する。15世紀末頃に三木別所氏の初代当主則治(のりはる)によって築かれたと考えられる。
 天正6年(1578)から同8年、東播磨最大の勢力を誇る三木城主別所長治と織田信長の部将羽柴(後の豊臣)秀吉の間で起こった三木合戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われた。
 三木合戦後も三木が播磨における京都や大坂からの入口として重要な場所であったため、杉原家次、前野長康、中川秀政・秀成が城主となり、その後、豊臣家の直轄地となった。慶長5年(1600)池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となった三木城には、家老の伊木忠次が入城したが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。
 構造は本丸・二の丸を中心部とし、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害等で構成され、各曲輪が並立する。規模は東西約600メートル、南北約700メートルを測り、南側は山と谷、他三方を崖に囲まれている。南側に鷹尾山城と宮ノ上要害を配置し、背後の防御性を高めている。石垣は確認できず、土造りの城としては、戦国期における播磨屈指の大規模城郭といえる。
 現在、本丸には伝天守台と井戸が残り、二の丸は資料館等が建ち並んでいる。新城は昭和30年頃まで土塁や本丸側に数段の帯曲輪が残っていたが、すでに宅地化されている。鷹尾山城は東西に細長い尾根上に遺構が展開していたが、西端のみが残存し、周囲に土塁・空堀が巡っている。宮ノ上要害は浄水場等の建設により遺構は消滅している。
 発掘調査により、本丸・二の丸では、瓦葺き礎石建物が存在していたこと、内部が堀で区画されていたこと、本丸の伝天守台は堀が埋まったのちに造成されたことが明らかになっている。二の丸では、貯蔵庫とみられる16個分の埋められた備前焼大甕群が検出された。本丸・二の丸ともに瓦が数多く出土している。中心時期は戦国時代後半とみられる。    
  なお、城下関連の遺構としては、三木城西麓に位置する本町滑原(ほんまちなめら)遺跡において、有馬道に沿って検出長約80メートルの石列が確認されており、家臣団屋敷群の存在が指摘できる。

 

三木城跡 現況図

  三木城跡 現況図

 

三木城本丸跡 

 三木城本丸跡 伝天守台

 

三木城本丸跡 かんかん井戸

 三木城本丸跡 かんかん井戸

ウォーキングマップ

三木城を極めるコース [PDFファイル/2.07MB]

 

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