三木城南側の付城群を多重の土塁でつないで、南側封鎖線が構築されています。近隣諸勢力や毛利氏などから運ばれる兵糧などを止めて「三木の干し殺し」に決定的な役割を果たしました。
構築時期は、天正7年(1579)6月頃、三木城南側の毛利方と対峙する最前線の付城を結ぶように構築されたと考えられます。
三木城へと続く街道を押さえ込み、谷からの侵入を防ぎ、要所にはより安全な内側土塁線に基本的に接続するかたちで付城を配置して、兵糧攻めを貫徹させていった様子が見てとれます。
高木大塚土塁 調査風景
福井土塁E 全景(南西上空から)
土塁・旧道復元図
多重土塁・旧道復元図 (昭和44年作成 三木市都市計画図〈S=2500分の1〉を使用)