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三木城跡及び付城跡・土塁(国指定史跡)

印刷 文字を大きくして印刷 更新日:2019年8月22日更新
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三木城跡及び付城跡・土塁 (みきじょうあとおよびつけじろあと・どるい)

 
指定区分 国指定史跡
種  別 史跡
指定年月日 平成25年3月27日
年  代 戦国時代~江戸時代初期
所 有 者 三木市ほか
所 在 地 上の丸町ほか
概  要  

 史跡三木城跡及び付城跡・土塁は、天正6年(1578)3月から天正8年(1580)1月にかけて行われた三木城主別所長治と織田信長の命を受けた羽柴秀吉との間で繰り広げられた三木合戦に関する遺跡群である。

 三木市内には、現在も別所氏の居城三木城を取囲むように、織田方が築いた複数の付城や土塁が数多く遺存している。これらの遺跡群は、後に羽柴秀吉によって鳥取城や備中高松城などでも行われる広範囲に堅固な包囲網を形成させる最初の事例であり、戦国期の合戦の過程や全容を具体的に把握する上で重要な史跡として、平成25年3月27日に国の史跡に指定された。

 遺跡は、三木城跡を取囲む形で東西約6km、南北約5kmの範囲に所在している。付城は約40ヵ所築かれたと考えられているが、明確な遺構が確認できたものは23ヵ所、現存しているものは20ヵ所を数える。これらの中で、特に三木城の南側一帯には付城と付城の間に土塁を設けて、三木城を包囲していた様子がわかる。

 文献史料などから、付城の築城時期は、合戦の序盤、中盤、終盤の大きく3時期に分けられると考えられる。こうした時期に応じて構築される付城の特徴も異なっており、段階を踏みつつ「三木の干し殺し」を完結させていく推移も理解できる稀有な遺跡群である。

史跡を構成する遺跡一覧
  遺跡名 所在地

三木城本丸跡 上の丸町
三木城二の丸跡 上の丸町
三木城鷹尾山城跡 福井

平井山ノ上付城跡 平井・与呂木・志染町安福田
這田村法界寺山ノ上付城跡朝日ヶ丘土塁 別所町東這田・高木・別所町高木三木山国有林
高木大塚城跡 別所町高木三木山国有林
高木大塚土塁 別所町高木三木山国有林
高木大山付城跡・高木大山土塁A 別所町高木三木山国有林
高木大山土塁C 別所町高木三木山国有林
高木大山土塁D 別所町高木三木山国有林
シクノ谷峯構付城跡 福井・別所町高木三木山国有林
福井土塁A 福井三木山国有林
福井土塁B 福井
福井土塁C 福井
明石道峯構付城跡 福井
小林八幡神社付城跡 福井・別所町小林

 三木合戦(三木の干し殺し)

 三木合戦とは、天正6年(1578)3月から天正8年1月17日までの1年10ヶ月にわたる羽柴秀吉を主将とする織田信長方と毛利輝元を後ろ盾とする三木城主別所長治方との合戦をいいます。

 天正5年10月、織田信長は部将羽柴秀吉に中国地方の毛利攻めを命じます。この時、別所長治も織田方について秀吉に協力することを約束します。しかし、天正6年3月初め、長治は、秀吉と対立し、毛利輝元方へ味方しました。信長は長治の離反に激怒し、黒田官兵衛に対し、長治の成敗を命じました。これを受けて秀吉は、三木城へ押し寄せ、近隣に火を放ちました。

 当初、織田方は東播磨の反織田方の攻略を進めていき、4月に野口城(加古川市)を落とし、7月に神吉城(同)・志方城(同)を攻略しました。続いて、織田方は三木に向かい、7月下旬から三木城攻略のための付城の構築が開始されました。以後、平井山は秀吉の本陣となりました。10月22日、別所方は三木城から平井山の秀吉本陣への襲撃を試みます。しかし、長治の弟治定が討死するなど別所方の敗北となりました。

 翌天正7年4月、信長は、信忠らを再び播磨へ派遣、付城を新たに6ヶ所築くなどして三木城の包囲をさらに厳重なものとしました。5月下旬、織田方は丹生山の海蔵寺取出とその北麓の淡河城(神戸市)を攻め、淡河弾正以下を撤退に追い込みました。これにより、三木城は東側からの兵糧の補給ルートが閉ざされました。

 6月以降に本格化するとみられるも毛利方による明石浦魚住から三木城への兵糧搬入に対し、織田方は、三木・魚住の通路を塞ぐために、周辺の付城の間に番屋・堀・柵などの防御施設を設置しました。兵糧搬入路が遮断されたことにより、三木城の食糧不足は深刻なものとなっていきました。このような中、6月13日、秀吉の軍師であった竹中半兵衛は三木の陣中で病死しました。 

 9月10日、三木城への兵糧搬入を遂げたい毛利方は、平田・大村付近を襲い、同時に別所方が三木城内から出撃して兵糧を三木城内に運び込もうとしました。両軍衝突により、織田方は谷大膳が討死しましたが、別所方も兵糧搬入部隊が秀吉方の攻勢を受け、多くの武将が討ち取られました。

 10月7日、平田大村合戦に勝利した秀吉は、さらに付城を寄せて築きました。三木城包囲網を狭めたことにより、これ以降、毛利方からの組織的な兵糧搬入は行われなくなり、三木城内に蓄えた食糧は尽き、餓死者が数千人出るなど、「干し殺し」の様相となりました。

 天正8年1月、秀吉は三木城への最終攻勢を開始しました。1月6日、秀吉は調略により、宮ノ上要害を乗っ取り、11日には長治の弟友之が守る鷹尾山氏と叔父賀相(よしすけ)の籠る新城を攻略しました。15日になり、織田方である叔父別所重棟(しげむね)が城内から小森与三左衛門を呼び出し、別所長治・賀相・友之の切腹を促し、長治は城兵の助命を条件に秀吉の降伏勧告を受託しました。そして、17日に長治ら一族が自害することで三木城が開城となりました。